「誰でも出来る」と断言するときに切り捨てているもの

私が苦手としている言葉、意図的に使用を避けている言葉がありまして。
それは「誰でも出来る」です。

 

こんなこと誰にでも出来るよ、簡単だよ、といったような意味で使われる言葉ですね。

 

何故苦手なのかといいますと。
この世界に「誰でも出来ること」ってほぼ存在しなくないですか?と思うからです。

 

勉強してテストで高得点を取ることだとか、運動をすることだとか、料理、片付けなどの家事、風呂に入ったり歯磨きなどの身づくろい、走ること、歩くこと、音楽を聴くこと、なにかを見ること、自力で呼吸をすること。
そういったことが出来ない人は確実に存在します。

 

「誰でも出来る」という言葉を発するとき、おそらくその人が想定している「誰でも」のなかには「障害や疾病など何らかの事情がある人」は入ってないのだと思います。引っかかるのはここで、「誰でも」と大きく出ておきながら「特殊な事情がある人は別だけど」のように、確かに存在する人たちを枠の外に追いやるような言葉だから苦手なんですね、「誰でも出来る」って。
特殊な事情があると見なされた人たちだって、この世界に存在する「ふつうの人」ですよ。

 

「誰でも出来る」って、主に目の前の人を励ますときに使用される言葉ではあるので悪気はないのは理解しているのですが、どうにも、苦手ですね。
ああこの人の認識の中ではそれが出来ない事情がある人は「誰でも」の外にいるんだなあ、とか考えてしまってモヤモヤします。これは私の勝手な想像ではあるんですが、そういう想像を刺激されるので苦手なんですよねって話。

 

自分の中の「ふつう」の枠、ときどきチェックしてみると人生が捗るかも?

 

自分も人も、大切に。